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書評
坂本治也、『ソーシャル・キャピタルと活動する市民 新時代日本の市民政治』(有斐閣、2010年)
善教 将大
民主主義は不断の「民主化」,すなわち一般市民が政府を絶えず監視し批判することによってはじめて機能する。そう説いたのは丸山真男であるが,この主張とは裏腹に,現代社会では市民の協調や協働が求められる傾向にある。政府に頼らない形で市民が自発的に協力し合いながら社会問題を解決していくこと,政府と協力関係を築きながら政策を形成し実施していくこと。政府による問題解決手法の限界が叫ばれる中,このような「協調する市民」や「協働する市民」が必要とされることは想像に難くない。しかし,そこには丸山が述べる市民の姿を見ることはできない。では,どのような市民ないし市民社会が民主主義を機能させるのか。言い換えるなら,市民社会はどうあるべきか。本書は,以上の基本疑問を出発点に,近年多くの論者が注目しているソーシャル・キャピタル論に主として依拠しながら,日本における市民社会と統治パフォーマンスの関係を実証的に明らかにすることを通じて,あるべき市民社会像について描き出すことを試みる著作である。
本書の特徴は,その主張と方法論の二点に見出すことができる。第一に,本書は,先行研究とは異なり,ソーシャル・キャピタルは必ずしも民主主義を機能させるわけではないことを主張する。ソーシャル・キャピタルとは,人びとの間の水平的なネットワーク,一般的な信頼感,互酬性の規範等を意味する概念である。これまで,多くの研究者や実務家は,市民の協調・協働を支えるこの社会関係資本が政府のパフォーマンスを高めることを主張してきた。しかし,著者によればソーシャル・キャピタルの豊かさは必ずしも統治パフォーマンスの高さに直結しないという。この点が本書の特徴であると同時に,既往のソーシャル・キャピタル研究への重要な理論的貢献となっている。
なぜソーシャル・キャピタルの豊かさは統治パフォーマンスの高さに繋がらないのか。その理由は第一に,統治パフォーマンスを直接的に規定するのは「統治パフォーマンスとソーシャル・キャピタルの間に存在する媒介変数」(4頁)だからである。そのような変数として著者が着目するのは政治エリートに対して適切な支持,批判,要求,監視を行う「活動する市民」の力である。著者はこれを「シビック・パワー」と呼ぶ。第二に,このシビック・パワーとソーシャル・キャピタルの関係は,政治文化あるいは制度に条件付けられる。そのため,日本のように参加逃避意識が高く,また,アドボカシー団体を生み出しにくい構造をもつ国では「ソーシャル・キャピタルの多さが必ずしも「活動する市民」の多さに直結しない」(136頁)。つまり,統治パフォーマンスの向上に寄与するのはソーシャル・キャピタルではなくシビック・パワーであり,さらにソーシャル・キャピタルの豊かさはシビック・パワーの豊かさをもたらすわけではない。以上より,著者は一般論としてソーシャル・キャピタルが民主主義を機能させるわけではないことを主張する。
第二に,本書では,きわめて精緻な実証分析に基づきつつ,上述の議論の妥当性について検討がなされている。この点も本書の大きな特徴のひとつであり,具体的にはまず,都道府県および市町村レベルのデータを用いた計量分析より,ソーシャル・キャピタルの豊かさが統治パフォーマンスの高さに直結するわけではないことが示される。次いで,ソーシャル・キャピタルではなくシビック・パワーが統治パフォーマンスを規定すること,また,ソーシャル・キャピタルとシビック・パワーは必ずしも連動しないことが,都道府県および市町村レベルのデータを用いた計量分析より示される(ただし,シビック・パワーの規定要因については都道府県レベルの分析のみが行われている)。さらに仙台市民オンブズマンの活動事例の分析より計量分析と同様の知見が得られること,換言するなら計量分析の結果が実態から乖離した妥当性を欠くものではないことが示される。
ソーシャル・キャピタルと統治パフォーマンスの関係を実証的に明らかにする研究は既にいくらか存在するものの,これほどまでに丁寧で粘り強い実証分析を行っている研究を評者は寡聞にして知らない。たしかに,独立変数や従属変数が妥当性および一貫性に欠ける点や事例選択が恣意的である点など,本書の方法に疑義を呈する読者は多いかもしれない。しかし,評者も著者と同じく「代理指標を用いて検証を行っていくことは,その限界が自覚されるかぎりにおいて,無意味ではない」(98頁)と考える。むしろ,制約的なデータを用いつつ,さらにはソーシャル・キャピタルという実証が困難な対象を扱う中で,体系的な分析を行っている点は驚嘆に値する。
以上に述べた以外にも本書の意義は多数あげられるが,それらのうち,評者は特に「活動する市民」の重要性を説得的に示した点が本書の大きな功績であることを指摘したい。著者が実証分析を通じて示すのは,アーモンドとヴァーバが指摘するように,市民の協調・協働と批判・監視の両者が合わさることによってはじめて民主主義は機能するということである。すなわち,ソーシャル・キャピタルはそれだけでは「処方箋」たり得ず,ゆえに市民の協調と協働のみが求められる社会は,あるべき市民社会像として不十分である。本書のタイトルが『ソーシャル・キャピタルと活動する市民(傍点評者)』である所以も,おそらくはこの点に求められよう。本書は,「新しい公共」を論ずるうえで見過ごされがちであった「活動する市民」の重要性を,我々に改めて認識させた点でも意義があると言えるのではないだろうか。
無論,本書に問題がないわけではない。最大の難点は,本書が掲げた問いへの解答に「揺らぎ」が生じていることである。著者は,先述した通り,あるべき市民社会の姿として市民の協調・協働・批判(監視)の三者が織り成す社会を描いている。しかし,その姿は必ずしも明確ではなく,とりわけ著者はその担い手について確定的な判断を下せないでいる。
著者の「揺らぎ」は,終章にて,一方では一般市民ではない市民エリートの重要性を説きつつも,他方では代議制民主主義においては一般市民が重要だと指摘し,「市民エリートの選好が一般市民の選好から乖離してしまう危険性」(223頁)について警告を発する点に端的に表されている。一般市民と市民エリートを概念的・機能的に区別し,「活動する市民」の担い手として後者を重視する著者の議論は,裏を返せば一般市民は統治過程に積極的に関わる必要はないことを含意する。しかし,これは民主主義の規範原理,さらに言えば著者が示すあるべき市民社会の姿と整合的ではない。なぜなら,アーモンドとヴァーバの主張は,一般市民個人の政治的態度が積極的であると同時に消極的であるべきことを説くものだからである。ゆえに,一般市民と市民エリートの機能分担や相互補完について検討すべきという著者の指摘は正鵠を得ておらず,また,両者の関係をどれだけ検討しようともあるべき市民社会の姿は得られないように評者には感じられる。一般市民でありながらも,状況によっては「市民エリート」になるような個人こそが,現代社会においては求められているのではないだろうか。
もっとも,以上の指摘は本書の価値を損ねるものではない。本書が既存のソーシャル・キャピタル研究に限らず,広く政治学一般に与える貢献が大であることは疑いの余地がない。「市民の時代」にふさわしい市民政治学の構築という険しい道を切り拓いた著者に,草稿段階より本書に携わったものの一人として敬意を表したい。
※この書評は、『公共政策研究』第11号に掲載予定のものでしたが、事務局の不手際で掲載できませんでした。第12号に改めて掲載しますが、このホームページにおいても掲載することにいたしました。



